稲田登戸界隈

川崎市多摩区周辺の記録。

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カリタス第二踏切 川崎市多摩区中野島4

南武線の溝の口より立川側はこんな小さな踏切が沢山ある。南武線がローカル線だった名残というか、昔はひどかったんですよ、国鉄時代の南武線。2010_05_16 059

えー、さすがに踏切なんだからさ、接続する道路は舗装路だろって思うあなた、多摩区を舐めるな!ガチの農道です。
2010_05_16 060


昔の宿河原駅や久地駅を思い出せば、まず、駅員が切符を切らない。検札をする箱にちゃんと入ってなかったりしたんですよ、若い国労のにーちゃんは。客が検札を求めて事務所からイヤイヤ鋏を入れるって風景が日常茶飯事。
2010_05_16 067



たまーに検札する箱に入ってても、ボケーと空みてて、こっちが切符だしても気がつかない。切符で袖を突いたら悪たれつきやがって。「突っつくんじゃねーよ」
2010_05_16 068道は細いまま梨畑の間を抜けて最後は民間の駐車場に出てしまいます。サイコー!多摩区。

さすがに小田急接続駅の登戸はしっかりした駅員でした。旧国鉄の名誉の為にも申し添えます。
また赤字だらけの国鉄にあっても南武線は当時から今までずっと黒字路線である事は誇りにしてよいのではないでしょうか。
2010_05_16 071

撮影日 2010年5月16日


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テーマ:神奈川県川崎市 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/05/27(木) 00:03:17|
  2. 川崎市多摩区中野島
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:23
<<旧三菱自動車多摩寮 川崎市多摩区長尾6 | ホーム | 路上駐車厳禁@つつじ寺  等覚院 川崎市宮前区神木本町1>>

コメント

お久しぶりです。

南武線の小さい踏切も今は当然遮断機が付いているのですね。あの当時ほとんどの踏切は左右を
見て渡る踏切だったように思います。(笑 ) くぎを置いて遊んだのはあの辺です。

その昔、登戸小学校の下校時、登戸駅経由の帰り道は南武線の線路の上を歩きました。
丁度登戸神社の裏を通る道が世田谷街道の下で途切れておりましたので、
あそこの近くの踏み切りから今もあります吉澤石材店の踏切までを歩きました。
そんなに一般的ではなかったかもしれませんが、よく歩いて帰ったように思います。
スタンドバイミーの映画みたいですね。

迷いましたが書いてしまいますと、あの途切れていた道沿いでずいぶんと砂利採取で
穴が掘られておりましたが今はすっかり住宅地になってしまっているんですね。

ストリートビューで見て思ったのですが、昔石屋さんの向かいと、サンクスのところは
釣り道具屋さんでした。あと去年の暮れ登戸に行きまして「サンタ」なくなっておりがっかり
しました。でも登戸小学校のすぐ横の文具(駄菓子)の店「じゃりば」はまだあり驚きました。

その登戸に行ったとき約45年ぶりに同級生にあって聞いたのですが、以前お話した
製紙工場廃墟事は覚えてくれておりまして、多摩川製紙のものではないかとのでした。
なんか話を作っていて申し訳ありません。



  1. 2010/05/27(木) 01:41:25 |
  2. URL |
  3. 元住民 #-
  4. [ 編集]

つれづれに

元住民さん、おひさぶりです。時々覗いていただいて嬉しいです。

へー、というか世田谷街道近くでも砂利の採取をしていたんですね。旧多摩川の流れは今よりずっと蛇行していたそうですから、登戸や登戸新町は河川敷でもあったということでしょうか。
上流の府中でも西武鉄道が支線を延ばしてますが、これも砂利採取が目的だったようで、戦前から高度成長まで実に大量の砂利が多摩川で取られていたのですね。

しかし危ない通学路ですね(笑)。私の子供の頃の南武線はさすがにそこまで牧歌的ではありませんでした。そんな南武線も今はキチリとスーツを着たサラリーマンをのせて、朝は3分間隔で走る山手線のようになってしまいました。

釣具屋は2軒あったのですね。石屋さんの前のほうは知りません。サンクスになってしまった釣具屋さんはへらブナの精密な仕掛けや美しい竿などが展示してあって、釣をしない私もその繊細さに見とれていました。サンタはへんな焼肉屋?になってしまい・・。

45年ぶり・・すごく興味がありますね、そのうちお聞かせください、お話の内容。では。
  1. 2010/05/27(木) 23:54:17 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2010/05/29(土) 00:01:38 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

砂利採取と言いますと・・。

府中県道さん ふたたび今晩です。

砂利採取時の運搬用の支線廃線跡とかネットでよく見かけますね。
なんと稻中横もそうですよね。あの当時興味がなかったので知りませんでした。

砂利取りの禁止になるのは当然におもえる、写真を見つけたので紹介させてください。
もうご存じだったかもしれませんが、ひどいものですね。
盗掘を業とする鮮人部落とか書かれておりますが、そのひとたちだけであのように
なったのではないと思います。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/45517/photox20.pdf

  1. 2010/05/29(土) 01:11:34 |
  2. URL |
  3. 元住民 #-
  4. [ 編集]

>府中県道さん
お久しぶりです。
自分も以前、地図を見て小さな踏切があることを知り、その踏切に行ってみました。
多摩川側から訪れたのですが、最初は入口すら分かりませんでした。
まさかあんな農道の先にあるとは思いもしませんでしたよ。

自分はJRと同じ年齢なので、国鉄を知りません。
国鉄時代の南武線がどんな感じだったのかというのはとても興味があります。
その当時に生きていた人がとても羨ましいです。


>元住民さん
はじめまして。カザユキと申します。
稲田中の横の運搬線跡は、地図で見ても道路が丸くなっているので分かりやすいですよね。
でも河原の砂利をあんな地形になるまで掘っていたとは知りませんでした。
とてもためになる資料を有難うございます。
  1. 2010/05/30(日) 01:11:56 |
  2. URL |
  3. カザユキ #-
  4. [ 編集]

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  1. 2010/05/31(月) 00:01:24 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

驚愕の穴6メートル

元住民さん、面白い資料をありがとう御座います。

狛江市の公式サイトに砂利採取の話もありますが、この写真と資料はすごいですね。
6メートルまで穴を掘ってしまったり、堤防切ってしまったり、人間の欲深さにはため息が出ます。
下流で砂利を取り尽くしたあとに稲城の上流まで採取範囲が上がり、やがては河川以外にも採取の手が伸びた歴史を初めて知りました。それが元住民さんの居たころまで痕跡が残っていた・・・。
ネット上で色々この問題を調べるうちに過去の話では済ませられない頭の痛い問題も痛感させられてしまい、意識を新たにすることにもなりました、ありがとう御座います。

同資料には当時の5万図もあって宿河原の駅が「やどがわら」表記だったり、向ヶ丘遊園の雪が坂から神木まで一般道が抜けていたりと新たな発見でした。

内務省同資料から昭和13年の洪水で登戸小田急鉄橋も。凄い発見です。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/37140/photox20.pdf
  1. 2010/05/31(月) 00:01:25 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

Re: 踏切

カザユキさん、どうもお久しぶり、お元気ですか。

カザユキさんも地図で探索されたことがあるんですね。
地図で発見して現地に行くときのワクワクする気持ちは楽しいですね。で、意外となんでもなかったりしてガッカリすることも多いのですが、此処はビックリされた?

国鉄時代の宿河原や久地駅の悪口を書いてしまいましたが、全部が全部そういった人だったとは思われたくもないのです。またこちらは少年でしたから、あんまり丁寧な対応もしてくれなかったというのもあるんですけどね。

電車マニアでなかったので国鉄の思い出もあまり無いのですが、今と違うのは冷房化率でしょうか。80年代中期頃でも南武線はかなり冷房化率は低く、半分程度じゃなかったかと思います。中央線でも前と後ろだけ冷房車とかの編成がありました。汗だくで駅について、よく蒸し風呂のような電車に乗れたものと思います。ただ窓は全開だったので、走ると結構涼しかったです。とはえいえ窓からの風と頭上の扇風機で男でも女でもヘアースタイルはぐちゃぐちゃ、窓から入る轟音はヘッドフォンの音楽もかき消すほどで快適には程遠いものでした。自動車のエアコンも90年頃までは20万円ほどするオプションだった時代ですから、「冷房は贅沢な物」という考え方もありました。
  1. 2010/05/31(月) 00:52:24 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

こんばんわ。

私から案内させていただいて、洪水の写真も雪が坂から神木まで一般道も
見ておりませんでした。本当に凄い量ですね。

私がおもしろく思った所を2つ紹介させてください。

こちら新議院上棟になっているところを見ると、まだ国会議事堂という名前
が付いていなかったのでしょうか。だいたい議事堂の骨組みが見られて
おもしろいですね。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03_05.html

鉄道マニアではないのですが、その中で一人納得したことを書かせてください。
2ページ目の線路平面図の線路は、簡略してまっすぐに書かれている思っていたのです。
で最近たまたまぼんやり地図を眺めておりまして、座間の友人が
「昔座間の住民の反対があり小田急線はしかたなく山側を通したんだよ。」
と話していたのをを思い出したのです。意味がよくわからなかったのですが、
地図をよく見ますと、確かに線路は下りで相武台を過ぎたあたりで
左に折れ本厚木に向かって大きく迂回して走ってますよね。
本当は今の行幸道路上あたりを通したかったのが理解できます。
こういう事をおもしろく感じる自分が不思議です。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf

この場をお借りしまして

カザユキさん 初めまして。
南武線は、昔他にはない古い車両がありまして、床は板張り
で油みたいなもの(ワックス?)塗られておりまして、窓の日よけは
木製のブラインドみたいなもので、下から持ち上げるタイプのものでした。
で乗客はどちらかと言うと川崎の日本鋼管とか通うような
工員のような服装の人が多く、なんか小田急線とは雰囲気が違う記憶があります。

小田急線が一直線だったら最後出来たJRの駅「海老名駅」はなかったでしょうね。(笑)
  1. 2010/06/01(火) 00:11:40 |
  2. URL |
  3. 元住民 #-
  4. [ 編集]

あちこち見てます

しかし面白い資料ですね。
小田急としては可能な限り小田原まで直線で通したかったのでしょうね。新宿―小田原間を1時間で結ぶのが悲願でもあたようですし。ちょっと前に海老名に行きまして、あのビナウォークというものに度肝を抜かれました。大家は小田急とかで、実にすごい街に仕上げたものです。それも昭和2年からの鉄道会社の底力というか、日本は鉄道国なのですね。

小田原線の記事もありましたが、あの竜宮城の駅舎は最初からあれなのですね。笑ってしまいました。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/05-05/05-05-1032.pdf
3頁目の路線図は、稲田登戸駅が町田とならぶ拠点駅で書かれていて、今の遊園駅の冷遇振りと対象的です。

他にも色々見つけました。昭和3年、多摩川の国鉄砂利採取。ちょっと上流の下河原ですが、「東洋第一」とか誇らしげでこりゃダメだわ。このえげつない大機械で掘りまくったようです。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/04-05/04-05-0786.pdf

地元南武線の浜川崎線も当時は最先端工法の新線で、いまの寂れ方が嘘のようです。昭和5年。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/06-02/06-02-1184.pdf
  1. 2010/06/01(火) 23:53:39 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

まったくですね。

この資料おもしろいですよね。私は江ノ島駅見ておりませんでした。教えていただいてありがとうございます。丁寧に見ないと見落としますね。海老名駅は駅前がずうっと駐車場だったりして手つかずだったので、一気にあのようになってしまいましたね。あそこだけ賑やかで、ちょと離れると寒川のほうまで
田園風景というのがおもしろいです。そういえば、私は最近知った、座間遊園地の話も
なんかおもしろいです。地元では普通に知っているみたいですが・・。
  1. 2010/06/03(木) 00:25:45 |
  2. URL |
  3. 元住民 #-
  4. [ 編集]

ちょっとごめんなさいね

非公開のTBKさん、おどろかせてすみません。
私が生まれた家の回りもほとんど未舗装だったので、子供の頃は雨降るとぐっちゃぐちゃの酷いもんでした。昔はゴム長にスーツってカッコのサラリーマンが普通だった時代なんですけどね~。
  1. 2010/06/04(金) 00:23:00 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

資料充実!

ご無沙汰です。
ちょっと半端無く忙しくて、死にかけです。
資料PDFが感激しました。 八丁畷が今と同じで(笑)
多摩川の掘り返されよう は初見で驚きました。橋脚の足下が洗われて、橋が落ちる事は知っていましたが、あれでは確かに。。。
そのほかすべて、すごいすごいと、喜んで読ませて頂きました。
そうそう。コドモ拙宅前が砂利道で、年に1回くらい、新しい砂利が撒かれてから雨が降ると、明るい灰色の(黒くない)水が流れて、なんだか嬉しかった記憶があります(笑)


  1. 2010/06/16(水) 02:01:06 |
  2. URL |
  3. sei5 #-
  4. [ 編集]

砂利

sei5さん、お忙しそうで、お体大丈夫でしょうか。

いや、太っ腹なサイトもあるもので、また教えてくださった元住民さんに共々感謝してます。
あと日本建築学会で検索されると、そちらの学会でもデジタルアーカイブスを公開しています。
それも面白いかと。

南武線の尻手周辺が原っぱというのも恐ろしい光景ですね。

改めて考えますと、箱物行政と批判される土木事業への公共投資も明治~高度成長期までは貧相な国土を改良するための重要な事業だったということですね。その為に犠牲となったものも沢山あると思うのですが、今のインフラの基礎が自分が考えていた遥か以前から着々と計画されていたことに驚きます。

sei5さんのところも未舗装でしたか、砂利道で転んだりすると痛かったですねえ、撒かれたばかりのバラスは盛大な創を作るもので、大人になって残る膝の傷がありました。

  1. 2010/06/20(日) 12:23:52 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

南武線博物館

そうでしたね。宿河原駅は朝早いと改札に駅員が誰もおらずフリーパス、通学定期を忘れてきたのに気付かず、無札乗車し下車駅で清算なんてことも何度かやりましたが、下車駅でも「改札に誰もいなかったから」と言うと、「あっそう」でお仕舞いでしたね。

>南武線は、昔他にはない古い車両がありまして、床は板張り で油みたいなもの(ワックス?)塗られておりまして、窓の日よけは 木製のブラインドみたいなもので、下から持ち上げるタイプ

分かります!
70年代初めでも時々一両だけ、そういう車両が連結されてることがあって、友達とレトロ感覚を喜んだものでした。
浜川崎線や鶴見線には鉄道ファンには有名だった「一両編成電車」初め、この種の車両が多く残っていて私も見に行ったことがありましたね。
  1. 2010/07/04(日) 10:36:25 |
  2. URL |
  3. 故郷丘陵 #-
  4. [ 編集]

Re: 南武線博物館

故郷丘陵さん、お返事遅れましてすみません。記事のほうも御無沙汰です。ちょっと別の事で色々ありまして更新止まってます。今月から再開予定です。

さて、今の宿河原駅は一著前に朝も夜もサラリーマンで満杯ですけど、まだプラットフォームの構造は大昔のママで、駅舎も古レールが柱です。

1972年ごろ、小田急が斬新な骸骨顔の9000系を走らせたのと対照的に、登戸で乗り換えればチョコレート色の旧型国鉄車両が「Yuuu-Uuuuu」と吊りかけの音を響かせて・・と今なら鉄道ファンが喜ぶのかもしれませんが、住民にとっちゃ敵いません。うへ~カッコ悪いの来た~と不平タラタラ。
油を敷いた床、というもの強烈で、車内の雰囲気は暗い、臭い、暑い、怖いと高度成長期の新し物好きのガキには、嫌なものでした。
とはいえ国鉄が地元を走っているのは良い面もあり、小学校の修学旅行は登戸から特別列車で南武線を走って日光まで直通で行きました。地元から日光までノンストップ!鉄路は全国につながっている、さすが国鉄なのだ、とロマンを感じましたね。地元の南武線がちょっと誇らしかった思い出です。
  1. 2010/07/17(土) 01:04:29 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

Re: 南武線博物館

 修学旅行特別列車、南武線で、ここ数年のうちにも見た記憶ありますねぇ。残念ながら、自分の記憶には残っていません。 唯一残っているのは、帰りの栗橋駅で特急?通過待ちをしている間に、運転席に入り込んで、いろいろいじり回した事(笑)。気楽な時代で、運転士も「これは外せるかな」とか言いつつ、運転台のヒューズを外して持たせてくれた事と(笑)、東武の特急が目の前を横切って行った事か。 府中県道さんと同様に修学旅行で行ったハズの日光は、一昨年十分ヲジサンになってから見た記憶の方が強烈過ぎて、コドモのショボイ記憶など吹き飛んでしまいました。残念(笑)
 チョコレート板張りの南武線。ドア正面のポールで、天井まで登りましたっけ。板張りのチョコレートは、たぶん、車両側面が鋲打ちされていましたよね。鋲の無いチョコレートも走っていて、武骨な鋲が来ると、なんだか嬉しかった記憶があります。
  1. 2010/07/19(月) 21:47:57 |
  2. URL |
  3. sei5 #-
  4. [ 編集]

車両

皆さん、よく車両の事をお覚えでなのですね。そういえばドア正面にポールがありましたね。
あと肘掛がクロームメッキのアールがついたパイプで、寄りかかることができないものでした。
たぶんドアは片開きだったんでしょうね。

修学旅行特別列車というのは、初めて知りました。私(登戸小)はバスでした。
そちらで日光に行ってみたかったです。

登戸駅前に去年本当に久々に立ちまして、あまりの変わりようにびっくりしました。
広場の奥側にあった秀文堂(本屋)やペット屋が入っていたアーケードが
消滅していたからです。ただ交番の位置は昔から変わっておりませんね。
  1. 2010/07/24(土) 00:03:14 |
  2. URL |
  3. 元住民 #-
  4. [ 編集]

Re: Re: 南武線博物館

sei5さん、どうも。
まだ修学旅行列車って在るようですね。
しかしヒューズ外しちゃダメでしょう(笑)運転士さん!!いいですなあ、のどかで。
当時から理科系っぽいアプローチですなあ。

南武線のポール、あったあった!子供ならそら登るわ!
といっても無い車両も在ったような記憶もあり、年式によって違うのでしょうか。
あれは母か親戚だったか、これがあるとラッシュの時にぶつかって痛いから嫌いで、
国電からこれが取れてすっきりした、とか言っていた記憶があります。
残念ながら、鋲つきのものとか細かいディテールが記憶から消失してます。

年次的に茶色車両に遭遇できたのはそう長い間では無かったようで、気がついた頃にはチョコ列車は
引退したのか、黄色、オレンジの車、時には黄色オレンジの混成になってしまった記憶があります。
写真の一枚でも残っていればよいのでしょうが、まったく無いんです。残念。
  1. 2010/07/25(日) 13:00:58 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

Re: 車両

元住民さん、こんにちは。

私の代はクラスが50人学級、学年も8組~10組位まであった生徒数爆発時代で、
就学旅行なぞ列車のほうが効率が良かったのかもしれません。
川崎市全体が人口爆発の時期ですね。

> 広場の奥側にあった秀文堂(本屋)やペット屋が入っていたアーケードが

交番の向かいに立っていたバラック造りの長屋ですね。
本屋、熱帯魚屋、飲み屋と続いていたような。

秀文堂という店名は覚えていないのです、初めて知りました。
私が中学、高校の頃は、通路の両側が本屋となっており、左手側が単行本や真面目な本、右手側が漫画や雑誌の類で、そっち側にオヤジが粗末な椅子に腰掛けて店番をしていました。

高校も終わり頃、昭和エロの代名詞の「ビニール本」が登場し、早速この店でも大量に置きだしました。
それまで漫画の棚だったところに、表紙だけでも学生には衝撃的過ぎる本が壁一面を埋め尽くすごい本屋になり、興味深々ながら学生の身分では買ず、横目でチラチラ見るだけでした。

平成5年にバラックが火災で焼失する寸前には、本屋が若干縮小し、雑貨店のようなものが入り口に出来たり、小さなリニューアルを繰り替えしたようですが、さすがに記憶がおぼろげになってきております。
  1. 2010/07/25(日) 13:37:14 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

バラック長屋はどこから?

> 広場の奥側にあった秀文堂(本屋)やペット屋が入っていたアーケードが

私も今の登戸駅前に立つとまるで浦島気分と言いますか、方向感覚を失ったような一種の無重力感に襲われてしまいます。交番の位置は変わっていないということさえ漸く思い至った次第です。

秀文堂さんにはお世話になりました。バッラク長屋は中高生の頃、駅を出て五所塚行きのバス停まで行く通り道でしたからバスの時間を睨みながら毎回寄ってましたね。

そう、駅側から進んで左側には岩波文庫・新書なんかもあったし、右側では「週間FM」やエロ雑誌なんかを立ち読みさせて頂きました。中高生としては金銭的にも気分的にも勇気を出して買ったりもしましたが。
少なくとも宿河原の駅前書店さんよりは硬軟共に在庫が多かったんですよね。

ただ私は一面ビニ本という光景は記憶にありません。

右側にはレコード屋さんもありましたね。

あのバッラク長屋が焼けたという話は耳にしてましたが、全面焼失でその後再興されなかったということでしょうか?

あのバラックの由来はご存知ですか? 「闇市の跡かな」と思わされるような雰囲気でしたよね。

溝の口の西口商店街は健在と聞きますが、あの踏み切り前にあった焼き鳥屋さんなんか今でもあるんでしょうか。いつも立ち食いのサラリーマンで賑わってましたが、「寄り道は不良」とされてた小中高生は横目で通り過ぎるだけで、遂に食う機会がないままに今まで来てしまいました。小学生で食ったなんていう猛者もいましたが。

>板張りのチョコレートは、たぶん、車両側面が鋲打ちされていましたよね。

そうそう板張り車両は、外装鋼板が鋲打ち仕上げで、何だか装甲車みたいないかつい体裁でしたね。
私にとって南武線はまず鋲なし茶色車両ですが、鋲打ちチョコに遭遇すると、私も異様さも覚えながらも何か嬉しかったです。
  1. 2010/07/26(月) 11:15:58 |
  2. URL |
  3. 故郷丘陵 #-
  4. [ 編集]

Re: バラック長屋はどこから?

思いだいました。レコード屋あった~!!
バラックは多摩百貨店という名称だったのらしいですが、意識したこと無かったです。火災は大木耳鼻科側の外壁は残ってバラック全体は建設用のシートで囲い、しばらく放置されていたと思います。が、その後の記憶が全然無く、気がついたら登戸駅全体が変わっていました。

溝の口の西口商店街も火災で半分無くなっています。「立ち呑み」は健在ですが、東急の裏側の店が全部無くなってしまいあの怪しい雰囲気は全く無くなってしまいました。1間でやっていた帽子とワイシャツ、靴下しかない用品店のおじいさん、魚屋さん、なかなか通な品揃えのジーンズ店など、プチアメ横みたいで大好きだったなあ。
  1. 2010/07/30(金) 00:49:12 |
  2. URL |
  3. 府中県道 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

さらに・・。

原住民たちよりの集合の呼びかけで遊園北口に立ちその寂れ具合に、登戸駅とは違った意味で驚きました。
駅前なのにシャッター通りぽいですね・・。

アーケードの件ですが、レコード屋の名前はモトキレコードだったのですね。覚えている人間がいました。
私がさらに思い出したのは、レコード屋の隣さらに出口側は床屋でした。最後まであったのでしょうか。
仲間たちに聞き忘れました。

ところで以前PなしKなしのGC10に乗っておりました。1.1tありませんでしたから今の1500CCより軽いんですね。
またKPGC120って何だ。ケンメリーRの上級車かなと思ったら日産バネットでした。(笑)
  1. 2010/08/13(金) 15:38:57 |
  2. URL |
  3. 元住民 #-
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府中県道

Author:府中県道
男性・会社員・中年
好物・とろろそば
作者の地元の神奈川県川崎市、向ヶ丘遊園から半径2キロ程度の非常に狭い範囲を記録しています。週一回は撮ろうとしていますが、最近は月2回が精一杯です。食には疎いのでグルメガイドにはなりえませんので御了承ください。

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ペンキ塗ってくれよ!柱が叫ぶ、思う!!追憶の遊園モノレールの本
ののぱりこ(著) 
「向ヶ丘遊園モノレール はしらのはなし」
文教堂 向ヶ丘駅前店で買えました。(2008/2/23現在、 レジ横に積んでありました。かわいいPOPが立ってました。)2010年現在は、多摩図書館はじめ川崎市立図書館にて読めますよ。

ののぱりこさん


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