稲田登戸界隈

川崎市多摩区周辺の記録。

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日本電気 生田研究所 川崎市多摩区東三田2

専修大学生田校舎であるが、以前は日本電気であった。戦時中は住友通信工業に社名が変わっている。よって当時の呼称は「住友通信工業株式会社 研究所 皇国第四五八二工場」である。登戸の昔を知る人が「登戸に日本電気があって・・」というのはこの研究所と研究所付属の日本電気稲田工場の事を言っているのだろう。20110313-00.jpg

昭和15年、日本電気の玉川工場内の研究所が生田の山に移転し、研究所として設立される。研究目的は真空管やテレビジョン、レーダー等の高周波の研究である。当時の最先端の研究といえよう。
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ここから僅かな距離に陸軍登戸研究所があったことを考えると、なんらかの近似性を感じる。どちらも陸軍の指導で出来た施設なのだ。
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戦後の昭和24年に労働争議を原因として研究所は閉鎖され、しばらくして専修大学が土地を買い取り、生田校舎となる。大学は開校にあたって敷地をそのまま使っているようで、大学の外周の道路や地形は研究所当時と現在ではほとんど変わっていないことが、1947年当時の航空写真でよく分かる。大学校門は研究所時代の門と同じ位置だ。
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生田緑地の太郎美術館を眼下に大学の裏へ向かう。研究所時代の枡形山城址は今のように整備されたものでなく、ただの原野の中にぽつんとピークがあっただけのようだ。
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冬の日差しにメタセコイアが美しい。
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今はゴルフ場になって入れないが、研究所からひょうたん池まではたのしいハイキング道だったそうだ。あのゴルフ場は潰して、市民に開放してくれないかな。
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生田緑地の駐車場。当時この近辺に楓館、松館という西洋館が2棟あったという。戦前は海外協会の帰国子女の寄宿舎だそうで、研究所が出来てからは研究所の一部として使用、戦後は研究所員の社宅として使われていたが、研究所の閉鎖からまもなくして閉鎖された。現在付近を当時の痕跡を探してみたが、全く分からない。
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戦争末期はB29の編隊がこの丘を越えて行った。多摩丘陵に展開した高射砲陣が猛烈な対空射撃をしたという。研究所からは東京が火の海になるのがよく見えたそうだ。
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大学校舎に11日の震災の影響が出ていた。
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研究所OBの方々が出版された日本電気「生田研究所回顧録」を参考、引用させて頂きました。
戦前から戦後の僅かな期間だけ存在した幻の研究所を知る貴重な資料で、出版された方々に感謝しています。

撮影日 2011年3月13日



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  1. 2011/03/25(金) 00:09:51|
  2. 川崎市多摩区東三田
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作者の件

府中県道

Author:府中県道
男性・会社員・中年
好物・とろろそば
作者の地元の神奈川県川崎市、向ヶ丘遊園から半径2キロ程度の非常に狭い範囲を記録しています。週一回は撮ろうとしていますが、最近は月2回が精一杯です。食には疎いのでグルメガイドにはなりえませんので御了承ください。

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