今日の新聞に小田急ロマンスカー10000形の引退記事が載って慌てた。今日は3月17日。
1月にロマンスカーと通勤電車5000形の引退の話を聞いて、何時か撮っておこう、
と思ったが天候が悪かったり、用事があったりと何時の間にかタイムリミットの16日が過ぎてしまっていた。
震災から一年の日、地震の時刻にはダイエー向ヶ丘店で館内放送にあわせて黙祷を捧げ、
電車を撮ろうとやってきたのは小田急陸橋の下。
ここは陸橋と線路に阻まれて、なんとも窮屈な空間だ。

陸橋が出来るまでは、ここに踏切があり府中街道はここを抜けていた。

かつての府中街道の面影がなんとなく分かるだろうか。明治から昭和まではこの左側には小さな商店街が形成されていた。この先には10年ほど前までは紀ノ国屋という料理屋があったが、今はマンションになっている。

二ヶ領に掛かる橋はなんの変哲も無いコンクリ橋だ。風格を感じさせるのは銘版のみ。

私が覚えている最も古い小田急の記憶は、正月の年始に横浜の親戚に行く時もの。
紺色の車体にオレンジのラインが入った電車だった。
まだ横浜線や御殿場線に蒸気機関車が走っていた私の幼少時代。山北からD52に乗ったことがある。
程無くして小田急はあのクリーム色の車体となる。5000形の顔の奴は私が一番乗った電車だ。

私が小学生の頃は、あのガイコツ顔の奴(9000形)が走り始めた。斬新なデザインではあったが、あまり好きではなかった。小田急といえば、やはりあの顔の電車なのだ。
走り去るロマンスカーEXE。後ろの稲田登戸病院の跡地の工事は終わりましたね。

何時まで待ってもこの日は10000形、5000形には逢えなかった。ちゃんとダイヤを調べてくるべきだった。

あまりに垂直な護岸にされてしまった二ヶ領新川が痛々しい。

撮影日 2012年3月11日
テーマ:神奈川県川崎市 - ジャンル:地域情報
- 2012/03/17(土) 22:18:25|
- 川崎市多摩区枡形
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長尾4丁目から登戸を目指します。
80年代まではこの一帯は稲田の広がる場所で、正面の二ヶ領を渡った長尾3の崖線下以外は住宅がありませんでした。今は僅かな畑を残し、マンションやアパートが立ち並ぶ宅地となって、ここだけ残った空き地がかつての田園風景を偲ばせるだけです。

数年前から戸建ての家も建ち始めました。この道は府中街道新道が出来るまでは、明治時代から長尾から登戸まで続く昔からの道です。

空き地の端から崖下の家々を見ています。戦前はここも田畑でしたが、戦後はこの界隈では一番先に宅地化しているようです。正面にあげ枡という天ぷら屋が見えていますが、長尾寿司、清月(日本蕎麦)、はなぶさ(とんかつ)が消えて、この界隈で唯一残っている感じです。久地駅から向ヶ丘遊園までの旧府中街道沿いは、食事が出来る店が極端に在りません。

まだ農村を偲ばせる集落は残りますが、

近年やや開発の兆しが見られます。平屋の貸家が一気に壊され、奇麗なアパートが建てられています。

府中街道を渡って宿河原3丁目に入ります。

ここも農村集落の形を残す地域です。

立派な生垣。

2年ほど前に出来たドラッグストアーの駐車場、ひっきりなしに車が入ってきます。

見上げるとああ、向ヶ丘遊園の大階段が見えますね。

登戸に入ります。

このような所を抜けて、

登戸駅前です。

撮影日 2011年11月20日 23日
テーマ:神奈川県川崎市 - ジャンル:地域情報
- 2011/11/26(土) 23:22:57|
- 川崎市多摩区長尾
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9月3日に開館予定のミュージアムですが、ここ半月ほど騒がしい。しきりと内覧会をやっているようで、今日も関係者を集めての内覧会でした。この撮影は午後1時ですが、朝9時にこの前を通った時には既にこのような状態でした。遊園ボウル閉鎖以後、寂しかったこの周辺が急に賑やか。

このようなシャトルバスが登戸から出ているのですが、府中街道を切り通し交差点で右折するのが大変そうでした。しかしバスや徒歩での来場を推奨し、車での来場を断る姿勢には拍手です。まあ、今の子供が遊園駅から喜んで歩くか、非常に疑問ですが。

建物としては遊園ボウルより大きい。

関係者やら招待客やらでがったがえす有様。子連れの客よりも、厳しい目つきで会場を仕切るスタッフや背広姿の関係者が目立ち、違和感を感じます。市を上げての事業でだったり大人の付き合いも多そうで、私の好きな向ヶ丘遊園、つまり裏山的自由空間だった長尾の山が突然、堅苦しいオフィシャルな場所にされてしまい戸惑いを覚えました。こんなとこでスーツ着て名刺交換すんじゃねーよってツッコミ入れさせて頂きます。

向ヶ丘遊園 大階段
その手のおっさん達ははしったかこいて「藤子先生のドラえもんは素晴らしい、云々」て語ってしまうのでのでしょうが、もしジャイアンのリサイタルと聞いて地獄絵が頭に浮かばないなら語る資格は無い。

荒れ放題だった大階段は先週あたりに下の方が塗りかえられました。補修がされそうな予感ですが、

上の方はボロボロ・・泣くなあ。
藤子作品といえば、私の子供の頃、クラスで人気だったのは「魔太郎が来る」でした。そうA作品ですね。今も人気のドラエモンは私の代ではあまり人気がありませんでした。ドラえもんに夢中になったのは昭和40年代の中以降の生まれで、コロコロを読んでいた世代かもしれません。私は初めて買った漫画が「荒鷲少年隊」だったり、タツノコのシャープな絵が好きだったので、藤子の丸っこいキャラにはあまり馴染めなかったのです。

遊歩道も何やら工事です。公共事業万歳。

夜になっても煌々と明かりが。残業おつかれさまです。
さあ、これから子供達に夢を与えてください。旧向ヶ丘遊園の山々もそれなら喜びます。
普段漫画を読む習慣がないくせに、「漫画・アニメでクールJAPAN発信」とか「日本のコンテンツ産業を盛り上げる」とか言ってしまう勘違いでバカなオッサンは来ないでね。

撮影日 2011年8月28日
- 2011/08/31(水) 00:50:35|
- 川崎市多摩区長尾
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専修大学生田校舎であるが、以前は日本電気であった。戦時中は住友通信工業に社名が変わっている。よって当時の呼称は「住友通信工業株式会社 研究所 皇国第四五八二工場」である。登戸の昔を知る人が「登戸に日本電気があって・・」というのはこの研究所と研究所付属の日本電気稲田工場の事を言っているのだろう。

昭和15年、日本電気の玉川工場内の研究所が生田の山に移転し、研究所として設立される。研究目的は真空管やテレビジョン、レーダー等の高周波の研究である。当時の最先端の研究といえよう。

ここから僅かな距離に陸軍登戸研究所があったことを考えると、なんらかの近似性を感じる。どちらも陸軍の指導で出来た施設なのだ。

戦後の昭和24年に労働争議を原因として研究所は閉鎖され、しばらくして専修大学が土地を買い取り、生田校舎となる。大学は開校にあたって敷地をそのまま使っているようで、大学の外周の道路や地形は研究所当時と現在ではほとんど変わっていないことが、1947年当時の航空写真でよく分かる。大学校門は研究所時代の門と同じ位置だ。

生田緑地の太郎美術館を眼下に大学の裏へ向かう。研究所時代の枡形山城址は今のように整備されたものでなく、ただの原野の中にぽつんとピークがあっただけのようだ。

冬の日差しにメタセコイアが美しい。

今はゴルフ場になって入れないが、研究所からひょうたん池まではたのしいハイキング道だったそうだ。あのゴルフ場は潰して、市民に開放してくれないかな。

生田緑地の駐車場。当時この近辺に楓館、松館という西洋館が2棟あったという。戦前は海外協会の帰国子女の寄宿舎だそうで、研究所が出来てからは研究所の一部として使用、戦後は研究所員の社宅として使われていたが、研究所の閉鎖からまもなくして閉鎖された。現在付近を当時の痕跡を探してみたが、全く分からない。

戦争末期はB29の編隊がこの丘を越えて行った。多摩丘陵に展開した高射砲陣が猛烈な対空射撃をしたという。研究所からは東京が火の海になるのがよく見えたそうだ。

大学校舎に11日の震災の影響が出ていた。

研究所OBの方々が出版された日本電気「生田研究所回顧録」を参考、引用させて頂きました。
戦前から戦後の僅かな期間だけ存在した幻の研究所を知る貴重な資料で、出版された方々に感謝しています。
撮影日 2011年3月13日
- 2011/03/25(金) 00:09:51|
- 川崎市多摩区東三田
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